14 May 2008

森達也『死刑』

 18:20、珍しい友人から電話が掛かってきた。
「今、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「何してんの?」
「今スタバで一人で本読んでる」
「へぇ〜、何何?」
「え〜、たぶん引くと思うよ」
「あ〜、イヤらしい本でも読んでるんでしょ〜?」
 スタバでエロ本なんか読むわけない。いいだろう。どんな反応が返ってくるか、言ってみた。
「違う違う、違うよ。あのね、森達也って人の『死刑』っていう本」
 え〜ともキャーとも取れる悲鳴めいた返事が返ってきた。ちょっと本当に驚かせてしまっただろうか。
「ブックカバーしてるぅ?」
「いや、俺しないんだよね」
「した方が良いよ〜。それかせめて表紙を裏返しにするとか……」
 世の中には色んな人がいて危ないからという、彼女なりの心遣いだった。優しい子なのだ。そして人よりちょっと気ぃ遣いな子。ただ、その想定内の反応が僕にほんの少しの孤独感を味わわせた。

 僕が死刑という制度に関心を抱いたのは、本当につい最近だ。数ヶ月前。新聞の書評でたまたま目に入ってきた「森達也」の文字。『ご臨終メディア』や『クォン・デ』を読んで大ファンになっていた。最近、『視点をずらす思考術』も読んだ。
 余談だが、この『視点をずらす思考術』の中の「ビンラディンへの手紙」には2回泣かされた。森の、この世界や人間(または自分)に対する怒り・哀しみ・葛藤、そして深い愛情が感じられ、心が震えた。
 その森達也の今回のテーマは「死刑」。今日ようやく買って、半日かけて半分くらい読んだ。久し振りに優雅で有意義で、充実した休日だった。

  さて、この死刑制度についてだが、この新聞の書評を読むまではほとんど考えたことが無かった。大学で英会話サークルに所属していた頃、ディスカッションの 議題として取り扱ったことはあるから、犯罪抑止力の有無とか新たに終身刑を設けた方が良いという意見があることぐらいは知っていた。あとは、光市母子殺害 事件で本村洋氏の主張に耳を傾けていたくらいだ。しかし、それはほんの少し知識を得たぐらいで、死刑制度に対して正面から向き合って思考するのとは違う。
  書評や森によると、死刑の実態は今の日本でははほとんど知られていない。秘密のベールに隠されていて、知る機会も考える機会も無い。だからみんな、知らない自分にも気付かない。日本の死刑は絞首刑だということも、今の若い人たち(あえておっさんくさい表現で書いてみた)は知らなかったりするらしい。

 やられた、と思った。また「教育」の問題が浮上してきた。大学1年のときからこの教育っていう厄介なヤツから遠ざかろう遠ざかろうとしてきたのに、何で教育ってやつはこうやって折に触れて俺を悩ませるのか。
  日本の多くの人々が死刑制度について知ったり考えたりする機会がほとんど無いのは、広い意味で「教育」の責任だ。死刑が行われるのに、われわれの税金が関っていることを考えるだけでも、確かに僕たちは死刑に関っている。「知らない」で本当に良いのだろうか?少なくとも、今よりはもっと多くの人が死刑制度に関心だけでも持つようになった方が、健全な社会だと僕は思う。しかし、関心を持つには、少しでも知識が必要だろう。その知識を与える教育が成されていない。僕たちは知らず知らずの内に国家に、政治に、権力に、メディアに、教育にコントロールされている。戦時中ほどひどくはないにしても。
 そういう意識も少しは必要だろう。僕たちは思考停止するようにしむけられ、小さな点としてここに、そしてそこに留まっている。

  森はこの死刑という迷宮を探るために、実に色んな文献・資料を読んだり、漫画家・刑務官・弁護士・政治家などの色んな人と会ったりしている。『クォン・ デ』のときもそうだったが、まがりなりにも修士課程を修了している僕が恥ずかしくなるほどの研究力と行動力。しかし、これだけの研究をしておきながら、森 は知識やデータだけでは本質は分からないとしている。死刑の本質は別にあるはずだ、と。僕が森の著作を安心して読める理由はここにある。ハードとソフトの バランスが良いのだ。感性に基づいた知識、データに溺れることの無い洞察力。植物に例えると葦だろうか。しなやかな強さがある。
 そして悩みながら、苦しみながら、あるいは泣きそうになりながら、でも譲れない、いや譲りたくない「何か」を抱えながら森は進んでいく。しなやかに強い情緒・意志も好奇心も人間としての弱ささえも一緒に。
  森の文章はいつも等身大だ。テレビに出てくるような「偉い」人たちとは違う。ちょっと好奇心が強くて、ちょっと疑問に対して素直に反応できて、ちょっと空 気が読めなくて、そしてたぶんちょっと人間が好きな「普通」の人。そんな森が満身創痍になりながら進んでいるのなら、俺も一緒に進みたい。ちょっとでも。 微力でも。この小さな点の小さな推進力がお茶の間レベルで日本中、あるいは世界中に広がったとき、僕たちの世界はきっと確かに変わる。別の言い方をすれ ば、そういう変わり方じゃないといけない。特別な「誰かが」じゃない。「カリスマが」でもない。「僕/私が」「あなたが」「彼も」「彼女も」「あいつが」 「こいつが」「そいつも」である。

 深夜3時過ぎ、ここまで書いて死刑制度に思いを馳せる。さて困った。俺は高校生のとき、先述の光市母 子殺害事件に大変な衝撃を受け、以来、本村洋氏を心の中で応援していた。今でも本村氏の言うことに反論するつもりは無い。正確に言えば「できない」。彼は 「当事者」なのだ。僕が経験していない、絶対的に知ることのできない領域にいる。僕は畏れさえ抱いている。そこに踏み込んでいくだけの力も知識も自信も、 今の僕には無いのだ。

 ふぅ。

 しょうがない。しんどくてもめんどくさくてもやるしかない。考えるんだ。大丈夫、きっと一人ではない。その気になって探せば仲間はきっとどこかに見つかる。見つからなかったとしても自分で創ることだってできるかもしれない。
 きっと傷つくと思う。でも前を見れば森もいるし、他の人たちも見える。横を見たって、幸せなことにいる!後ろには誰かついてきてくれるだろうか。小さな点でも少しだけ前に出てやる。痛いけど。
 絶望するのは、きっとまだ早い。


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